しょっぱい習作シリーズ2回目。今回はカールと同じぐらい、軽〜いです。
途中までは『傘をあげる』で書いてたのに「今夜だけだけど」とヤスヲカに言われて挫折したのは秘密!
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THAT'S WHAT I WANT いつもは聞こえない電車の音が、朝からよく聞こえた。雲が低いからだろう。
『きょうは傘を持ってお出かけくださいね』と、天気予報のかわいいキャスターが言った。僕にお出かけの予定はないので、かわいい、というところを除いて聞き流す。そんなことより、と、僕はきのうの出来事を噛み締めるように思い出す。
僕はきのう、ついにあの人の名前を知った。
朝、会社に行ってすぐのことだ。エレベーターを待っていたら、4機あるうちちょうど僕の目の前の扉が開いた。そこからあの人が降りてきたのだ。のどから思わず「あ」と声がもれたが、あの人は気がつかなかったみたいだった。あの人は笑顔で「おはようございます」と言った。僕も慌てて同じ言葉を同じように返した。ロボットみたいだと思って、せめて鉄腕アトムみたいに発音よくしゃべった、と自分では思う。そしてすれ違う時、首からさがった社員証の小さな文字を、裸眼0.4の視力で食い入るように見つめた。ほんの1秒間。苗字が『西○』であることだけ、わかった。
……西。西。ニシ。
僕は何度も舌の上でそれを発音した。西。その一文字が僕がきのう成し遂げたことのすべてと言っていいくらいだった。エレベーターが8階につくまでの間、僕はひたすら考えた。西……西川。西野。西原。西岡。西本。意表をついて西城。どれだろう。どれか当たっているだろうか。それにしても、『西』でよかった。僕がどうしても知りたかった一文字が、そんな簡単な文字で本当によかった。
自分の席に着いてから、社内の共有データベースを開いた。僕はずいぶん早く出社しているうちの一人だ。だがその僕よりも、あの人が来ているほうが早いのだ。毎朝必ず。それに気づいたのは半月ほど前のことで、あの人の名前が気になり出したのもその頃だった。
データベースには、出社して自分のIDをドアに通した時刻が全員分記録されている。僕はそれを片っ端からスクロールしていった。この建物にいるのだから本社の人間だ。僕と同じ階にいるのだから部署名はだいたい絞ることができる。
その中で、僕よりも早く来ている人。西ナントカという人。いつも『おはようございます』と声をかけてくれる人。お天気キャスターと同じくらいかわいい人。よく社食でBランチを食べている人。とても気になる人。
きのうの僕の出社時刻は7時23分。それよりも早いのは6人。その中で苗字に『西』がつくのは、7時13分に打刻しているひとりだけ。
……西、澤。
はずれた、と思いながらも、僕は浮かれた。かなり。そうか、あの人は『西澤さん』というのか。ニシザワさん。おはようございます、ニシザワさん。近いうちにそれを、あの人に向かって言える日が来るだろうか。いい天気ですね、ニシザワさん。
下の名前も続けて、僕はまた何度も口の中でその音を転がしてみた。我ながら馬鹿だと思った。それでもよかった。僕がどれだけ馬鹿でも間抜けでも、否応なくはじまることというのがこの世界にはたしかにあって、そうでなければ僕はニシザワさんという名前を知らずにジイサンになって死んだはずなのだ。
『きょうは傘を持ってお出かけくださいね』と、お天気キャスターの言葉を心の中で繰り返す。おはようございます、ニシザワさん。天気予報は見ましたか。傘は持ちましたか。午後からは雨になるらしいですよ。
——雨は面倒だけど、あなたは太陽のようです、ニシザワさん。
いや、それはない。いや、ないことはないかもしれない。でもさすがに言えるわけがないと我に返る。はじまったばかりのことには過剰な空想がつきものだが、空想にもほどがある。ごめんなさい、ニシザワさん。調子に乗りすぎました。
でも、土曜日がこんなに退屈だと感じるのは、天気が悪いせいではない。それだけは空想ではなさそうだった。
いつも聞こえてくる飛行機の音に、きょうは、今はじめて気がついた。
#THAT'S WHAT I WANT/the Gospellers
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