六月からこっち出歩きすぎて、ほぼ毎週扁桃腺が腫れている(自業自得)!
いいんだ!楽しかったから!見たかった人達はみんな見たので、あとエゾまで何もしないでボンヤリしよ〜(奇跡で確保したブンブンは除く)(ほんとに奇跡だ…)
ゴを見ていてちらっと思ったんですが、
グループで活動する場合、集団としてのクリエイティビティと、個人の創造性(意味同じ)、どっちが優先されるってことではないと思うんですが、なんというかな……集団での創作を続けると、自分の創造性がどこにあったかとか、本質的にどういうものであったかとかが、わからなくなっていくことってあるのでしょうかね。バンドだとまた、楽器分担っていう役割があるので少し変わってくると思うんだけど、全員ボーカルで5人とも曲が書けるとなると、自分とグループの境目がぼやけていって、ある日気づいてみたら分離不可なぐらいにごっちゃだった、ということが起きたりしないものかな?と、心配とまでは言わないんですが、それがもし起きたらどういう感じかと考えながら見たりしていました。
集団の骨と自分の骨、難しいバランスで組み合ってるんだろうな。
でも、あの5人は集団であるという幸運がそれを上回ってるのかもしれない。
MCにてちょっと「辿り着いた感」があったんだけど、彼らの行きたいところと、現在地と、微妙〜なズレがありそう(に私は見える)で、ここまで来ると逆に、そこへ辿り着くのには今までよりさらに坂がきつくなりそうで、でものぼって行ってほしい。手段をガラッと変えてもいいから、冒険していってほしいです。
あと、言うなれば夢の叶った不幸があるのかもしれないけど、叶わない不幸も同じだけ、減ることなくくっついてきてると思う。叶わない不幸こそがどこまでも人を生かすはず。創造力は、どうにもならないようなことを少しでもどうにかするために備わっているはず。
嫌いなものは嫌いでいいけど、あんまり、世界中を嫌わないでいてほしいな。
ということを(おこがましいのは百も承知で!)舟にも書いたつもりだし、多少幅は大きくなっても軸はそのまま、今でも同じように考えています。
生きることは循環です。自分が拾われてばかりいた時期は終わりつつあります。拾ってもらえたことでどれだけの幸せを知ったかは、これから長く時間をかけて返していけたらいい。そして拾う側になっていかなきゃいけない。拾われたいものが沢山、世界には残っているはず。甘かろうと折れかけようと、拾うべきものは拾って守って形を変えて誰かに手渡すことをしていきたい。つながることや見いだすことを、頼むから諦めないでおくれと自分にも他人にもうっとうしくも願う、それがたぶん私の本質です。それは、まあいいか。
『大丈夫、まだ大丈夫。
ざわざわするのは心地よくはないけれど、それがどこまでも俺を生かす、はずだから。』真夜中3
眠い!寝る。
明日読んだら「……何?」ってなることうけあい。
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